近代くらいのゴシックホラー風? 吸血鬼AUです。
・軽微な流血/暴力/カニバ表現
・頽廃的および冒涜的な描写(本作における宗教的要素は物語上の象徴表現であり、信仰の実際とは異なる可能性があります)
・内面化された差別意識
・同意の曖昧な身体接触

 今宵、この曠野に月はない。全天を包み込むかの如き深い闇。蔓のからんだ格子越しに忍び入るのは、まばらに瞬く星の光だけ――と、思われた矢先のことだった。幽栖の窓辺、古めかしい執務机で聖典を書き写していた尾形神父の地獄耳は、階下の不審な物音を聴き漏らさなかった。すぐさまインク壺に蓋をして、ランプから手燭に火を移す。気配を殺しながら階段を降りてゆくと、しんと静まり返った御堂の会衆席、その最前列に、ゆらり人影が揺れている。
「どちら様ですか」
 恐れ知らずの神父は、大柄なその人に声をかけることを迷わなかった。ために、むしろ相手の方が驚いたらしかった。弾かれたように振り返った顔が、灯火に照らされて俄に輪郭を得る。ひと目で良家の子息とわかる、気品ある細面。
「! 神父さま、」
 狩猟服姿の青年はすっと立ち上がり、鳥撃ち帽を脱いで礼をした。挙措はあくまで端正だったが、はしばみ色のその瞳には、どこか旅の疲れ以上のものが滲んでいるように思われた。得体の知れない不安、焦燥、あるいは恐れ。青年が詫びを口にしかけるのを、神父は敢えて遮った。
「ここは神の家ですからね。立ち入りを咎めるつもりはありません」
「夜分遅くに申し訳ありません」
「咎めないと言ったでしょう」結局詫びずにはいられない青年に、神父は小さく鼻を鳴らした。
「道に迷われましたかな」
「……はい」
 神父は青年の足元にちらと目を遣った。よほど歩き回ったと見えて、黒革製の上等な乗馬靴は土埃と泥に汚れてしまっている。それもそのはずだ。この曠野を超えるには、馬の足でもゆうに半日はかかる。
「神のお導きですな」神父は笑って答えた。「しかし、それなら喉が渇いておいででしょう。幸い、ここは神の家です。いくら水が稀少でも、あなたひとりを潤すくらいなら訳はない」
「ですが、」
「遠慮なさいますな。俺としても稀なる客人を饗したいのです。ええ、こうして誰かと言葉を交わすこと自体、本当に久しぶりなのですよ。あなたのような敬虔な方となると、尚更だ」

 不心得の王の御代、人々は科学と機械に熱狂し、信仰を蔑ろにしていた。今や教会を訪う巡礼者も絶えて久しい。神父が地下室から持ってきた杯は純金で出来ていて、葡萄酒は最後の一本、パンは最後のひとかけだった。いずれもかつては聖体の儀で使われていたものだが、もはや使い途はなく、饗すべきものも他になかった。惜しみなく杯に注いだ葡萄酒を、パンと共に眼前に差し出す。だいぶ待ち焦がれていたと見えて、青年の喉仏がためらいがちに上下するのがわかった。
「どうぞ」
「恩に切ります」
 教会の懐事情を察してのことだろう、青年は畏れ多くこうべを垂れ、それから祭壇に向けて十字を切った。そうして杯を受け取ると、神父がその整った横顔を眺めている間に、こくり、こくりと美味そうに喉を鳴らして、忽ちそれを干してしまった。
「よほど渇いておいでだ。お辛いでしょう」
 神父が酌をしようとすると、青年は大いに恐縮しながらもその厚意を受けた。パンを口に放り込んだ後の二杯目も、概ね同様の飲みっぷりであった。その後も同じことを何度か繰り返し、やがて壜はすっかり空になった。
「……ご馳走様でした」潤いを取り戻した唇がさもすまなさそうに言った。「何か御礼を差し上げたいのですが、生憎、私が持っているのはこの身ひとつ。お恥ずかしながら、路銀もすら持ち合わせていないのです」
「その気高いお志だけで充分です」
 神は見ておられる、と言葉で付け足す代わりに、神父はぼろぼろの祭壇に目を遣った。それからもう一度青年の方を見、
「しかし、あなたは徒歩でこの曠野を越えるおつもりか」
「はい。私はどうあっても帰らねばなりません」
「身ひとつで行かれるのですか」
「私を待っている人がいますから」青年は力強く答えた。
「何もご存知ないようだ」揺らめく手燭の火を見つめ、神父はため息をつく。
「もちろん、無謀は承知の上です」
「道行きの話ではありません」
 神父が先程のよりも深いため息をつくと、青年は沈黙のうちに問い返すかのごとく、困惑のまなざしを向けてきた。今は灯火の色に染まっているその瞳が、彼の無辜無謬を暗に物語っている。まるで何も知らないのだ。そう思うと、冷血を自認する神父の胸もなんだか軋むようだった。たしなめるつもりで、青年の肩に手を置いた。それから側面へと回って、わずかに逃れようとする素振りを見せた彼の耳に口許を寄せる。吐息するように、囁く。
「まだ、渇いておられますね」
「え……そんな、」
 口ぶりとは裏腹に心当たりがあってしまうのか、青年の息が次第に浅くなる。その彼に対して、神父は冷静に二の矢を継いだ。
「まだ、というのもおかしいか。あなたの渇望は、パンと葡萄酒などで癒える代物ではない。それはもう、あなたの本当に欲しいものではないからです」
「すみません、神父さま。私には何の話か……」
「こうすればわかりますかね」
 言うが早いか、神父は灯を吹き消した。放り捨てた蝋燭の下、台座の鋭利な突起に親指を強く、強く押し当て、
「う……ッ!」
 皮膚が破れるのと、青年が口と鼻を覆って蹲ったのとは、ほとんど同時のことだった。傷口が吐き出した真紅をふたつ指で伸ばし、血の匂いを芬々とさせながら、神父は身悶える青年に言った。
「やはりこちらがお望みのようだ。お気づきではなかったですか? あなた、吸血鬼なんですよ」
「吸血鬼!」神から見放された忌まわしき怪物の名に、青年は殆ど悲鳴のような声を上げた。その口角から覗く一対の牙を、青年自身の目が見ることはない。「冗談が過ぎます、神父さま。私は、私は決して……」
「本当に、何もご存知ないようだ」
 神父は鈍くかぶりを振る青年の正面に立つと、恭しく顎を持ち上げ、下唇に触れた。そのまま入口をこじ開ける。青年はされるがまま、自身の内なる衝動を認められないばかりか、何が起きているのかもわからずにいるようだった。破れんばかりに瞠られた目からは、とめどなく涙が溢れた。
「ああ……神父さま、どうか、どうかお慈悲を……」
 欲望と克己のあわいで右顧左眄する青年の肩を抱いて、
「大丈夫ですよ。俺は挨拶代わりに聖水を浴びせたり、杭を打ち込んだりなんて物騒な真似はしません。恥知らずの祓魔師エクソシストどもとは違います」
 これ以上の問答は不要だ。神父は口を塞ぐ代わりに、戦慄わななく唇へ親指を宛がった。どんなにか待ち焦がれた一滴を、青年の舌は受け止めずにはいられない。その瞳から理性の光が消える。それはあたかも、吹き消された蝋燭のごとく。
「心ゆくまでどうぞ」
 もう聴こえていなかろうが、構わなかった。神父は聖職者らしい微笑を浮かべて、己に縋りつく罪人つみびとのやわらかな癖毛に指を通した。一度や二度でなく、繰り返し、何度も。

 青年が正気を取り戻すまではものの数分、それは神父が思うよりも早かった。
「ああ……私は、なんということを……」
 嘆息混じりの言葉には、懊悩が艶となって顕れていた。忘我の時が短いというのは、心あるこの青年には誠に気の毒なことであった。
「ご満足いただけましたか」
 青年は苦い顔のまま、首を横に振った。まなじりには涙の跡が残っている。
「人を傷つけて満足など、あってはならないことです」
 そう言って彼が伏せた瞳に、羞恥とも絶望ともつかぬ翳が差した。
「俺が勝手にしたことです。あなたは牙の一本だって使ってない」
「それでも、です。……申し訳ございません、神父さま。私がここへ迷い込んでしまったばかりに、とんだご迷惑を」
 罪の意識に震える青年の両手が、まだ傷の乾かない神父の右手を包んだ。その祈るような仕草に、激しい慚愧の色が滲む。不浄な存在に身を窶し、字義通り血に餓えているという事実を内外から突きつけられても、彼が往時の高潔さを失うことは決してないのだと、その時に神父は思った。多くの”人でなし”がすぐさま投げ捨てる痛みを、この男は今も抱えたままでいる。もがきながらも、手放そうとせずにいる。
 ――その様の、なんと祝福されのろわれていることか。
「あなたひとりを潤すくらい訳はない、俺はそう言ったはずですが」
 神父は微笑を保とうと努力した。身の裡の焦熱と疼きを、およそ完璧に繕った。
「だって、あなたは是が非でも帰らなければならないのでしょう?」
「……はい」
「でも、どこに? 誰のもとに?」
「それは……」
 当然あるべき答えが己の中にない。そのことに、青年は青ざめていた。”帰る”のだと言いながら、彼の瞳に行き先の影はなかった。初めからずっと、ないのだった。
「そもそもどこから来たんです。それすらわかりませんか」
「……」
「ねえ、勇作さん」
 その呼びかけに、青年は身を凍らせた。
「どうして、私の名前を」
 名乗らなかったはずの名を、――自分でも今の今まで忘れてしまっていた名を、よもや初対面の相手が知っていたとなれば、驚くのも無理はない。神父は勇作の質問には答えなかった。代わりに憐れみの形を真似て、その白い頬に手を伸ばす。顎の優美な稜線を伝い、無防備な頸を思わせぶりに撫で下ろすと、相手はあからさまな動揺を示した。記憶の混濁。転化まもない吸血鬼には、残念ながらよくある話だ。
「……まだ思い出せませんか」神父は哀願めかして言った。
「なに、を……」
「あなたはよくご存知のはずでしょう」
 神父としては、宥めすかすつもりも、いたずらに恐怖を煽るつもりもなかった。狙いは正確無比であらねばならない。それだけだ。狩猟服の襟を寛げ、その下に刻まれているしるしに触れる。――よい狩人は、外さない。
「この噛み痕をつけたのが誰だったか」
「ああッ」
 古傷に重ねて神父の牙がつぷりと沈み、清けし小夜の伽藍堂に、引き裂くような叫び声がこだました。しかし勇作の恐慌はやがて恍惚に、さらに安堵へと変わり、温度のない唇からは、あにさま、と糖蜜よりも甘い吐息がこぼれた。彼はいつかも味わった官能のうちにすべてを思い出し、最早どこへも行く必要がないことを理解した。既に帰り着いていたからである――永い夜を共にする伴侶に弟を望み、この瞬間ときをずっと待ちわびていた、いとしい兄のもとに。
「あなたの目覚めを待つのは、ちっとも苦じゃありませんでした。何十年だって平気でしたよ。でも俺がちょっと居眠りしてる間に、地下から行方をくらまして……ようやく戻ってきたと思ったら俺を覚えていなかった時……この虚無と渇きばかりの胸がどんなに掻き乱されたか、勇作さん、あなたには到底わかりますまい」
「ごめんなさい、兄様。ごめんなさい」
「もう忘れたんですか。咎めないと言いましたよ、俺は」
 金杯カリスが転がるのも構わず、尾形は晴れて眷属になった己のよすがを抱きしめた。そして口許を艷やかな罪の色に染めたまま、祭壇の上の今にも崩れ落ちそうな十字架を――神の目にもよく見えるよう――仰ぎ見て、うっとりと、燃える氷のように微笑んだ。
(俺のことは、赦さなくて結構)

(了)

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