夏も盛りを迎えようという大修道院の中庭を、落陽が赤一色に染めている。
光に満たされ、あとは暗くなるばかりという夕空の下、シルヴァンはまだ痛みの残る左頬をひとり擦った。同じようなことを何度繰り返しても、叩かれて痛くなかった、などということは今までに一度たりともなく、いつまでも慣れることがないという現実が余計に惨めさを募らせていた。
あの子の手のひらも、この頬と同じように痛むだろうか――そうならよかったのに、という密やかな願望を否定できないままに仰ぎ見た暝天はまだら模様、何色ともつかぬような繊細な色彩をなしていて、本当、悲しいくらいに美しい。
「シルヴァン」
自嘲的な気分に浸る間もなく、背後から招かれざる客の声がした。わざとらしく肩をすくめ、多分にもったいつけるような緩慢さで振り返ったシルヴァンに、生垣を跨いで青い断罪のまなざしが注がれる。
「やあ、先生。奇遇ですねえ。……いつからそこに?」
訊くまでもないことを訊いた、とシルヴァンは思わず顔を顰めた。気配を消す術を心得ているこの教師のこと、ずっとそこにいたに決まっているのだ。庭師の手で丹念に仕立てられた蔓薔薇の茂みをぐるりと大股に回り込みながら、案の定、「はじめから終わりまで」と何らはぐらかすことなくベレトは答えた。
「君は懲りないな」
「懲りる? はは、真顔で面白いこと言わないでくださいよ」
素行を咎めるにしてはあまりに曖昧な言葉に、シルヴァンは苛立ちを覆い隠すための薄い笑みで応じた。
シルヴァンの目に、この教師は裏表のない人物と映っていた。その手で振るう剣のように迷いなく真っ直ぐで、しかし折れないしなやかさを備えてもいる。不思議な魅力の持ち主だった。だから学友たち、とりわけフェリクスが躍起となってその背を追いかける理由もわからないではなかったが、さまざまな慾望の交錯する社交界で人の影ばかりを見つめて育ったシルヴァンにとって、その在り方はそれこそ眼を灼かれるほどにも眩しいものと思われた。
「先生、なんだって俺に付き纏うんです。他にすることなんていくらでもあるでしょうに。……あっ、やっぱり俺に気がある、とか? いやあ……俺の記憶が正しければ、このあいだ丁重にお断り申し上げたはずですがねえ……」
ベレトはすぐに返事をしなかった。冗談を間に受けた風でもなかったが、顎下に片手を添え、言葉のひとつひとつを吟味するかのように、しばらく押し黙っていた。その間にも刻一刻と陽は傾き、東にほど近い空からゆるやかに夜の色を深めていく。ふたりの間に横たわる沈黙の重みにシルヴァンが痺れを切らす頃になってようやく、ベレトはその薄い唇をゆっくりと開いた。
「このままにはしておけない、と思っている」
核心に踏み込んでこようという気配に、シルヴァンは己が肌の粟立つのを感じた。妬ましくて、憎らしくて、殺してやりたいとさえ思う、先日鼻先に突きつけたばかりの物騒きわまりない本心が、自身のどこか深いところから再び頭をもたげてくるような心地がしていた。後ろ手に組んでいた指に知らず知らず力がこもり、それによってシルヴァンは内に逆巻く感情の渦、悪意の棘を自覚する。
「……へえ。本ッ当、物好きなんですねえ、あんた。生徒の惚れた腫れたにまで、わざわざ首を突っ込もうだなんて」
ベレトの蒼の双眸は他人には見えない何かを透かし見ているかのようで、そのことが頭の軽い男、翻って”ゴーティエの放蕩息子”という虚構――今となってはもはや何が真実なのかも定かではなかったが――を演じてきたシルヴァンにはどうにも耐え難いのだった。無闇に自他を傷つけないための軽薄の仮面も、この人物が相手ではまるで役に立たない。紋章を持って生まれながら、なにものにも縛られることなく自由で、傷つけられることを恐れず、痛みの中でなおも教え子の手を取ろうとするこの人物が相手では。
「……俺、態度を改める気はないって、この前言いましたけど」
破壊的に燃えるあこがれが、いよいよシルヴァンの胸を灼いていた。
「俺の願い、先生がひとつ聞いてくれるってんなら……こういうこと、やめてもいいと思ってるんですよ。ええ、もちろん、嘘じゃありません。女神様に誓って本当です」
「聞こう」今度の返事は思いの外早かった。「君が、そこまで言うのなら」
都合の良いことに、周囲に人の気配はない。
シルヴァンは怯むことなくベレトの右手をすくい上げると、暮れゆく陽を映して鈍い輝きを放つ漆黒の手甲へと、そっと口づけを落とした。唇はそこに触れたままで上目遣いに赦しを乞うと、ベレトの瞳は相も変わらず、目映いほどに純粋な覚悟の光だけを湛えている。そうしているのは教師としての義務感からか、それとも――。そのように思えば、シルヴァンの火傷の疼きはいや増すばかりだった。
別段逃れようともしない手首を掴んで背の高い生垣へと追い立てて、元傭兵という経歴には些か不似合いな生白い顎をふたつ指ですくい上げる。黒い外套が木々に擦れ、ぱき、と花茎の折れる音。吐息の熱を直接伝えられるほどの距離までを焦らすように詰めたところで、シルヴァンは眼前の教師に向かって口許だけの笑みを作る。それが意図するところは挑発であり、普段のような気安さを繕うことは、もうできそうもなかった。
「……抵抗、しないんですね」
「した方がいいのか」
もとより悪気も何もないのだろう、シルヴァンはそのつれなさと自身の期待とを鼻で笑う。
そこにある海よりも深いふたつの青に、動揺の色は見当たらない。シルヴァンはその無防備な首すじへとすかさず両の手を這わせた。しかしそこまでしても依然青い瞳は凪いだまま、滑らかな肌にはこの期に及んで汗のひとしずくも浮かんでおらず、触れた体温は冷たくもなければ、決して熱くもない。その妙に取り澄ました温さが、ちっとも変わらない表情が、この人を縊ったところで欲しい物は手に入らないという真実が、今のシルヴァンにはどうしようもないほどに口惜しく思われた。
だったら、と心に決めてからは早かった。逸る右手指がベレトの首を撫で上げるように伝って、その顎へ、頬へ、そして耳介へと触れる。指の先で、青草色の生え下がりがさらりとこぼれた。底のない湖を覗き込むような心持ちで、シルヴァンは目の前の教師をじっと見つめる。その口許が、薄っすらと弧を描いたような気がした。
ぱき、とまた花茎の折れる音。注ぐ斜陽ばかり、背に熱い。
「あんたの全部、俺にください」
殺し文句を突きつけようと、青の湖面にさざなみは立たない。しかし己を拒まれないことを知っているシルヴァンは、自身の浅ましさをひとつ嘲笑うと、返事も待たずベレトの唇を塞いだ。
(了)