軍靴に砕ける霜柱の音を、尾形は他人事ひとごとのように聴く。
「随分、楽しそうに見えますね」
「お誕生日ですから」
「あなたのじゃないでしょう」
「ええ。だからこそ、というのもあります」
「わかりませんな」横並びに歩く相手を一瞥し、半ば独り言めかして尾形はぼやいた。「そんなにも嬉しいものですか。己のならまだしも、俺などの誕生日が」
「勿論です。ついこの間まで、自分はひとりっ子だと思っていました……いえ、実際にそのようでしたから」
 言葉が途切れて、緑々とした藪椿の生け垣近く、どちらからともなくふたりは立ち止まる。目と目が出逢うと、勇作は真白の歯列を控えめに覗かせてはにかんだ。背後に広がる空までが嫌味な程に澄んでいて、この男はどこまでも純なのだと思い知る。
 正視に耐えず、尾形はふいと視線を逸らした。それから首周りの布地をありったけ襟元に掻き寄せたが、これだけ大きなが隣にいるのだから、特に寒いということもなかった。
 やわらかに煙る吐息の向こう側、ばら色の頰を上気させて勇作は言う。
「兄様を知って以来、一月の二十二日は私にとっても特別な日です。私の兄である人がこの日にお生まれになったのだと思うと、暦の上のその数が、それまでとは全く違って見えました」
「左様ですか」
「今日という特別な日を、兄様と共にできること。勇作、望外の喜びです。改めて、お誕生日おめでとうございます。この一年が、どうか兄様にとってよき年でありますよう」
 言われて、尾形はわずかに目を細めた。軍帽の鐔にかかる指、微笑みの形をつくる薄色の双眸、ひと息おいて深々と下げられる坊主頭。異母弟はその見目はおろか所作のひとつひとつまで清々しく、洗練されて美しかった。そこには一片の嘘もなかった。真実ゆえの美であった。
「恐悦至極です」尾形はその親愛を表層で真似て返した。
「……いつ何時、開戦してもおかしくない状況ですが」勇作は微かな苦さを滲ませて、然しあくまで気丈に言った。「叶うことなら来年も、再来年も、そのまた後も。何回でも、こうしてお祝いしとうございます。……いいえ、きっとそういたします。私はいつだって兄様のお傍におりますゆえ」
「おかしなことを仰いますな」
 嘲笑めいて鼻を鳴らすと、尾形はひとりで歩き始めた。途端につめたい風が頬を叩いたが、構わず進んだ。進み続けた。陽は陰り、空は淀み、花は散って、鳥は啼くことをやめ、いつまでも隣に人の並ぶ気配はない。進む道は昏く、どこまでも血塗られている。そのことの意味を、過ぎた時が返らないことを、今や尾形はよくわかっていた。
には明日だってありませんよ」

 ◇

 勇作殿、と呟いたのは夢の自分か、あるいはうつつの自分の方か。わからないまま目が覚めて、その答えを探す代わりに、尾形は傍らの愛銃を引き寄せる。狙撃手に感傷はいらない。負い革を肩にかける頃には、心の揺れはとうに過去のものだった。
 勇作が兄の誕生日を祝福したのは後にも先にも日露開戦間近の一度きりで、現実に二度目の機会を迎えることは終ぞなかった。その年の十二月、遠い旅順の地に勇作は斃れた。実のところは、尾形が殺した。
 新雪を刻む一条の足跡。夜明け前の闇は殊更に深く、外套越しにも身を切るような向かい風が吹いている。両親も祖父母も、異母弟も今は亡い。だから二十数年前の今日、最も寒い冬の折に尾形百之助の生まれたことを知る者は、軍のほかには尾形ただひとりだった。

(了)

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