⚠注意事項
・冒頭のみなので何も始まらないし終わらない
・受けの女体化(短髪/長身スレンダー)

 東京行きを待っていると、向かいのホームにすらりと背の高い女がいた。内側を大胆に刈り上げたウルフヘアを指で弄びながら、サングラス越しに手元のスマートフォンと睨み合っている。俺は握り込んだ片道切符を拳骨ごと上着のポケットにしまいながら、特に意味もなく息をひそめた。
 女は新雪のようなヨークコートを羽織り、その下には黒のスリーピースとボウタイブラウスを合わせている。並の男よりも上背があるにも関わらず、足元はハイヒールだ。サングラスとマスクのせいで顔はほとんど見えないが、それでさえ人目を惹いてやまない女だった。俺はなんだかこの人間を知っているような気がした。不意に女が顔を上げた。まじまじと俺を見て、何かに気づいたようだった。俺は急に寒さを感じた。思い出した、という方が正確かもしれない。
 その時、ちょうど向こうの乗り場に車両が入ってきた。そいつが腹いっぱいに乗客を乗せて動き出すと、先の女はもう向こう側にはいなかった。電車の走り去った後の風がホームに吹き下ろし、ため息だけが白く烟る。行ったか、としか思わなかった。何を期待することも赦されない俺には、それ以外思いようがなかった――なのに、カンカン、とホームの硬い床を穿つものがある。それがだんだん近くなる。わずかに乱れた呼吸も聴こえる。走ってきたのだ。こんな用途には到底向かない、あのハイヒールで。
「また、お会いできるなんて」
 そう言って女が外したサングラスとマスクの下から現れた顔には、忘れられない面影があった。もちろんあの頃よりも声は高いし、線もずっと細かったが、緩く弧を描く微笑みの月に、剣のようにするどく通った鼻梁、瞬きの度に頬を叩くほども長い睫毛、淡い虹彩を持つ切れ長の目――穏やかに烈しく俺を灼くまなざし。何も変わっていない。何も。
「人違いでは」
 何を感極まっているのか、あるいはそれほども俺の言葉に失望したのか、見上げた双眸にはみるみるうちに不凍液が溜まった。久方ぶりに誰かを泣かせた事実に思いのほか動揺して、俺は思わず面を伏せていた。吐く息はみな白く凍って、点字ブロックの上にあえなく落ちた。
 瞬間、視界が揺れて上向きになつた。向こうがあんまり強く抱きしめるものだから、慎ましやかな双丘が俺の肩口やや下に当たって、やわらかに反発した。旗手の役目などもう果たせないだろうこの華奢な躰のどこにこんな力があるのか、俺には不思議でならなかった。
「黙って行ってしまえばよかったのに」
 どうせ顔は見えないからと、俺はひとり運命のいたずらを嗤った。何も知らないフリをして、覚えてませんって顔をして、通り過ぎることだって出来たはずなのに。俺のいない人生に乗り込んで、未来の幸福を探していればよかったのに。俺に出会ったせいで、あなたはまた間違える。
「勇作殿」
「はい、兄様」
 涙声の勇作の背に行き場のない両手を回しかけた時、こちらの乗り場にも常盤色の車両が滑り込んできた。アナウンスがコンクリートに谺して、すぐ傍のゲートが誘うように開いた。押し寄せる人波は空気の読めないカップル(そう見えたとしても仕方なかったろう)を起点にふたつに割れて、カナンの地へと旅立ってゆく。発車を告げるベルが鳴る。扉の閉まる音がする。俺は何も迷わなかった。切符はもう、ポケットの中で握り潰してしまっていた。

 閑散期のホームは、もうそれきりがらんとしていた。今日降った雪よりも、あるいはこれから降る雪よりも、積もり積もった過去の方が重いこともある。車両が遥か彼方に遠ざかり、残響も何もなくなってしまうと、残された俺と勇作はいつかの朝のように、世界にふたりきりだった。
 ご存知でしょう。誰があなたを殺したか。
 あんなことがあってすらも温さを分け与えようとする勇作に、それを正面切って訊ねるだけの気概は、今の惰弱な俺にはなかった。

(了)

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