八回表、百超の投球を数えて今なおマウンド上で気炎を吐く背番号十一。その満身創痍の背中を、フェリクスは中堅から苦々しく見つめていた。
この回の先頭打者を三振に切って取ったまではよかったが、落ちきらぬフォークが、カウントの取り方にありありと滲む苦しさが、ディミトリの限界を暗に示していた。続く打者に粘られて四球を出し、犠打、暴投で招いた二死三塁。
ただの一点だってやりたくないのだから、普通なら走者を出した時点で交代を考えるところだろう。だが、監督に動く気配はない。途中、ベンチから投手コーチが出て行ったのみで、それもあくまでこの後の勝負についての確認に過ぎないのだった。
フェリクスは知っている。ディミトリは何も、ここまで試合を作った意地などという私的な理由からマウンドに固執しているわけではなかった。その逆なのだ。中継ぎの疲弊著しいこの状況でチームのことを第一に考えるなら、この回もディミトリに投げ切ってもらうより他にない。彼はエースだった。誰もが認める、エースだった。
だからこそ、彼のことを誰よりよく知るフェリクスは歯噛みせずにおれなかった。出し惜しみはいいから、とっとと打ち取ってしまえ。そう言ってやりたい背中は然し見るからに手負いの獅子といった風体で、フェリクスは思わず舌打ちをする。せめて援護できていれば、自分も声を掛けに行ってやれたら、――なんでもいい、その重圧をほんの少しでも肩代わりしてやることができたなら。
ただ立っているしかないこんな時のフェリクスには、遥けきダイヤモンド、とりわけその中央に座すマウンドなどは別の世界のようにさえ思われた。
球数は百三十にも達しようとしていた。
何度も首を振られながら、女房役のシルヴァンは外角に構えた。互いに苦慮の末の選択だった。ディミトリが腕を振りかぶる。示された理想までの距離をどうにか泳ぎ切らんと、かかる指先に全霊を賭して。
滑り出した白球。
息を溜めて、すくい上げるような打者のスイング。
ふたつが腰上のあたりでかち合って、
――轟く快音。
打球が夜空を裂いて飛んでゆく。大きい、これは大きい、入るか、入るか。両軍のベンチから同僚たちが飛び出して、客席のあちこちから悲鳴と歓声の入り混じった叫びが上がる。その音の洪水の中を、フェリクスは放たれた矢のごとくに走った。グラウンドを仕切るフェンスは限局そのものであり、ひとつの無慈悲な宣告でもあったが、そこに達して尚、フェリクスは諦めていなかった。
ディミトリの闘志は、まだ死んでいないのだから。
風は止んでいる。目測に誤りはない。
チャンスは一度、ただの一度。
奴の力投を無駄にしないために、今自分ができることは――。
フェリクスはいまいま柵を越えようとする打球を狙って跳び上がると、その腕をめいっぱいに高く、高く伸ばした。
悲喜のないまぜになったどよめきの中、フェンスに背を預けたままのフェリクスは、静かにその手のグラブを掲げた。白球のゆくえが、どこの誰にもよく見えるように。
瞬間、ワッと地鳴りのような昂奮が球場を包み込み、好捕を讃える派手なアニメーションが電光掲示板を極彩色に塗り替える。それはチームが本日最大の危機を劇的に脱したことをを示していた。
マウンド上のエースが脱帽してみせるのを遠目に見とめて、フェリクスの方はわざと帽子を目深にかぶり直した。割れんばかりの歓声の中、その中堅手の海よりも深い安堵の吐息を聴いたものは、本人以外には誰もなかった。