尾に惚れて人生おしまいになったモブの一人称による回想形式。
いわゆるモブ尾や尾夢の定式からは外れる内容です。十分ご注意ください。
・謎明治軸
・ひたすら不穏
・直接の性描写や暴力描写はありませんが暴力の結果や狂気的心情を含みます
・尾の裸と女装あり(左右の規定なし)
その方は酔って機嫌がよくなるときまってこう言うのでした。
「いいんだ。俺はあすこで世にも美しい山猫を飼っているから」
山猫。その言葉の響きに、私の胸は訳もなく高鳴りました。あるいはそう言う時の彼の顔が、あまりに恍惚としていたからかもしれません。私はその山猫とやらをひと目見てみたくて仕方ありませんでした。それで、ある日こっそり彼の後をつけました。巧妙に隠された道の先にあったのは、羽振りのよい商人らしい立派なお屋敷でした。私は留守を伺おうと、午前中に出直すことにしました。
翌朝、私は陽の昇りきらないうちに彼の別荘を訪いました。雨戸が半分空いていましたので、藪の中からその隙間を通じて様子を伺っていますと、突如、悍ましい悲鳴が山林に響き渡りました。大の男が恐怖から発した叫び声に私はすっかり怖気づいてしまい、その場から動くこともできません。すると襖の勢いよく開く音がして、それからズルズルと擦れるような鈍重な音が続きました。人ひとり引き摺って廊下を歩くとしたら、ちょうどこのようになるに違いない。私はとても嫌な想像をしていました。そうして実際にその通りのことが起きていたのでした。
綺麗なままの躯を引き摺ってきたのは若い男でした。黒檀を思わせる黒い髪を後ろに撫でつけ、雪のように白い膚をして、身につけているのは肩に引っ掛けた女物の錦羽織それ一枚きり。特に線が細いということもなく、むしろ体格としてはずんぐりとして筋肉質で、しかしその顔つきや仕草には得も言われぬ妖艶な野性がありました。なるほど山猫だ、と私は思いました――この美しくも血生臭いけだものを錦や花で飾って、密かに囲っておけたらどんなにいいだろう。たとえその爪牙にかかって命を落とす結果になったとしても……。とはいえ、実際にそうなった飼い主がすぐそこにいたわけですから、小心な私にそんな勇気は持てるはずもありませんでした。一刻も早くこの場を離れたかった。もし気づかれでもしたら――なのに、その姿から目を離すこともできなかったのです。
黒の瞳が恐るべき速さでこちらを捉えたのはその時でした。山猫は私を上から下までしげしげと眺め、それから十一月の初霜ほども薄い笑みを浮かべて、シイ、とくちびるに人差し指を立ててみせるのでした。鼓動まで見透かされたと感じて、私は頷き返すのがやっとでした。それも、ひどくぎこちなく。
商人は旅先で失踪したのだということになりました。私が彼の名誉ではなく、山猫との約束の方を守ったがために。……あなたにはきっとわかっていただける、と信じてお話しします。私がそうしたのは彼への嫉妬からでも、山猫の復讐を恐れたからでもありません。貝のように口を噤んですべてを忘れようとしたのでも、もちろんない。残念ながら、私はそれほど殊勝な男ではないのです。
そうです、私はただ、あの日見た山猫の姿を――不服従そのものが私に注いでくれたまなざしを、永遠に私だけのものにしておきたかった。ずっと、狂わされていたいのです。なぜならそれは正真正銘、この世で私ひとりに贈られた呪いだったのですから。
(了)