首に通う血の管を、指先でなぞられている。体温のない指が熱を奪うように首筋を撫ぜては離れ、その感触の冷たい残滓が、つい今しがたまで眠りの淵にあったシルヴァンの意識の輪郭をだんだんと確かなものにしていく。
指は明らかに”あたり”をつける動きをしていた。噛み付くのならばここを目掛けて、それで何もかも滞りなく終わる、という風に。狙いは正確無比だと思えたが、いくら待てども指の主が凶行に及ぶ気配はない。誰の仕業かはとうにわかっていた。だからされるがままにしておいた。そして、こちらが起きていることを相手方に知らせるなら、ただこの目を開けるだけでいい。夜目の効くその人物には、新月の暗がりの中にあってもそれだけでわかるだろうから。
視線は予想よりもずっと近いところでかち合った。夜半過ぎの静まり返った闇の中、そこに爛々と輝く一対の緋が、驚きにひとつ、ふたつと瞬まばたいて、ばつの悪そうに宙を泳ぎ、そのうちふいと脇に逸れた。
「……空寝か」そうぼやいたばかりの口が、チッ、とするどい音を立てる。「そんな気はしていた」
「まさか。ちょうど今起きたとこ」
今宵の空には月がなく、ただの人間にとってこの暗やみはあまりに深い。シルヴァンは、ちょっとごめんな、と断りを入れてから身を起こし、手探りで枕元の燭台を引き寄せた。指先でぱちりと火花が弾け、蝋燭の芯の燃える匂いが鼻をつく。今やすっかり闇夜の住人となっているフェリクスは、その小さな灯に捉えられると大袈裟なまでに目を細めた。
「いやあ、フェリクス、まさかお前が寝込みを襲う素振りを見せるとはなあ。自分じゃわからないんだが、そんなにも罪な味かねえ、俺の血ってのは」
「自惚れるなよ、血袋風情が」横並びに腰を下ろした兄貴分を一瞥し、フェリクスは至って素っ気なしに言い捨てる。「貴様がこの程度の闇討ちに対応できんようなら、いっそ寝首をかいてやろうと、……そう思っただけだ」
「なんだよ、お前だから好きにさせておいたに決まってるだろ? 野暮なこと言わせんなよ」
「ハッ、どうだかな。鍛錬嫌いの実力など、たかが知れている」
いつも通り悪態をつく唇の合間に、夜の狩人の証たる牙がわずかに覗いた。慾に塗れて白くぬめった輝きを放つ、人ならざる証。それが誰かを餌食としたことは、シルヴァンの知る限りではまだ一度もない。
こうなってまだ日の浅いフェリクスは、あくまで杯による食事にこだわっていた。毎晩、眠る前に杯ひとつ、それ以上もそれ以下もない。以来シルヴァンはその取り決めに基づいて己が血を分け与え、フェリクスもそれで理性やら体裁やらを保ってきたのだが、図らずも今、フェリクス自身の行動がその限界のそう遠くないことを証明しているのだった。
量の問題ではない。真に渇きを癒やすためには正しい道具、そして正しい作法が必要で、要は牙を使わず獲物に触れもしない食事は吸血鬼のさだめに悖もとるというだけの話である。というのも、自身と同じようなひとがたを喰らわねばならぬその獣けだものは人間が思うよりもはるかに孤独であり、何も血肉という有形のものだけをその存在の糧としているわけではないからだ。
「……で、”欲しい”のか? そうならそうと……」
変に気を遣わせぬようにと表向きは軽薄を装いながら、いよいよ今がその時かと、シルヴァンは明確なる覚悟のもとに寝間着の襟元を寛げた。
直接、血を吸ってもらう。それはフェリクスの身に起きたことを知らされた時からずっと考えていたことであって、その牙にかかることを特に恐ろしいとも思わなかったが、当の本人は”夜這い未遂”を見咎められても相変わらずの剛情ぶりで、なかなか首を縦には振らない。
「寝言は寝て言うことだな」
シルヴァンは、お前が起こしたんじゃないか、とは言わず、渋面の弟分に手を差し伸べる。
「何なら手首とか、指からでもいいんだぜ? どこでも貸してやるからさ、ほら」
「そういう問題ではない」
威勢よく言い切って、然しフェリクスは力なく俯いた。そのまま夜に溶けてしまいそうな濡羽色の前髪が、 言外を暗に語るその視線を遮るようにして、さらりと眼前にこぼれる。
「……なあ、」
言いながら、伸ばした手でフェリクスの頬へと触れる。戦場にない時でも刃のように冴えざえとした剣士の骨相、その縁に五指をそっと這わせ、撫であげる道すがら前髪をすくってやると、真紅の瞳が切に震えてシルヴァンを仰いだ。
蝋燭の灯に透けるほどに薄い肌はぞっと寒気のするほどに冷たく、しかしそれだけにどこまでも貪婪に生命の熱を吸い上げる。互いの境界がだんだんと曖昧になってゆく感覚に軽い目眩をおぼえながら、シルヴァンはその冷たい躰にふるいつくようにして囁いた。
「お前がお前であり続けるためには、……俺のじゃなきゃ、駄目なんだろ。何をそんなに迷うことがあるんだよ」
それを聞いて、フェリクスはため息混じりに笑った。
「わかっていて訊くな、馬鹿」
ほんの数瞬、逡巡を孕んだ沈黙の後で、どちらから求めるともなく唇と唇が重なった。やわく触れては離れることを繰り返すにつれ、交わりはだんだんとその深さを増してゆく。用心深く牙を避け、温度のまったく違う舌を番う蛇のように絡ませて、ふたりは長く接吻した。もはやどうにも分かち難いという、その真実を互いに確かめ合うように。
「……俺が、」濡れて艷やかに色づいた唇から、やがて息つくような言葉が漏れる。
「こんなものに成り下がってまで生にしがみつく理由を、よもや知らぬ貴様ではあるまい」
語気の強さの割に、フェリクスはどこか拗ねたような顔をしていた。一線を踏み越える過程で潤んだ瞳はその色の深さをいっそう増して、いまいま放たれようとする鏃を思わせるするどさで、シルヴァンを捉える。
――死ぬ時は一緒。
忘れようはずもない。いつかの約束を守るため、フェリクスは一度は得たはずの死に場所にあっさりと別れを告げてここにいる。
「当然、惜しみもする。牙を立てれば、直にお前を傷つけることになろう。それは俺が、俺の理性が望むところでは決してないが、……本能の方は、正直を言えば、一度覚えたお前の味を欲してやまない」
こうしている今でさえも、とフェリクスは自嘲気味に付け加えると、わざわざ見せつけるように牙を剥いてみせた。こけおどしのような、つよがりのようなそれに、シルヴァンは含み笑いと目配せで応じる。
「要は『自制や加減を忘れちまうかもしれないくらいには好き』ってことだろ」
「……ッ」
何を、とは言わなかったが、否定されないのは肯定も同じだと、シルヴァンはこれまでの出来事から確信めいて思っていた。事実、ぽんぽんと宥め賺すように肩を叩く手を、フェリクスは振り払わない。
「なあに、ずっと近くで見てきたんだ。俺はお前の理性ってやつを信じてるよ。それにさ、前にも言ったろ。俺がお前を置いて先に死んじまうわけがない、ってな。俺だって曲がりなりにも鍛えてるんだ。何かあったって、腹ぺこのお前ひとりを止めるくらいは訳ないさ」
苛烈な戦いぶりから敵味方に剣鬼と呼ばれ畏れられ、その生死の果てに人の生命を喰らう魔性のものと化してなお、フェリクスは時々、幼かったあの頃のようにあどけない。しかしかつては純粋に庇護欲をくすぐったそのさまが、羞恥に伏せられた長い睫毛が、今のシルヴァンの目にはいやになまめいて見えていた。
「そうだな、お前ひとりを止めるくらいは訳ないんだが、……先立ってひとつ、困ったことがあってなあ」
「……言ってみろ。元はと言えば俺の都合だ。善処は、する」
「実を言うとな、」
真剣なまなざしを注ぐフェリクスを前に、シルヴァンは随分と勿体つけて切り出した。
「お前が思うのと同じくらい、俺もお前が”欲しい”んだ」
そう言い終わるやいなや、逸る両の腕がフェリクスを力強く抱き込んだ。勢いもそのままに躰の下へと組み敷いて、その処女雪のような首すじにいやらしく舌を這わせる。
それまで綺麗に整えられていた敷布には誰かの眉間にあるそれよりもはるかに深い皺が寄り、ふたり分の重みに木製の寝台が幾度となく悲鳴をあげたが、そんなことはもはやどちらにとっても些事に過ぎなかった。
「杞憂だったなあ、フェリクス。俺をどうこうする以前に、お前が襲われてちゃ世話ないだろ」
「人が遠慮していれば、この色情魔が……ッ、今に後悔させてやる、から、……おい、……っしつこい、ぞ、シルヴァン……!」
吸血鬼が獲物の首を狙うのはそこがわかりやすく人体の急所であるからだが、一説には愛欲と独占欲、あるいはそれらの誇示のためともいう。
口づけを落とすたびにしどけなく身を捩るフェリクスのそこに刻印のような痕をいくつも残しながら、シルヴァンは己が手ひどくやり返される時のことを、半ば回らなくなった頭の片隅で夢見るように想った。
(了)