「なあ、イングリット。天馬がどうして野郎を乗せないか、知ってるか?」

 豊かな毛束が沈みかけた夕陽の下できらびやかに波打つさまは、さながら黄金の海を思わせた。日頃の活躍をねぎらうように、握った櫛を上から下へ、時には下から上へと淀みなく滑らせて、イングリットは天馬のたてがみを梳る。

「何よ、藪から棒に」そう言いながらも、生真面目なイングリットは首を傾げる。
「この子たちがとても臆病で繊細な生き物だってことは、あなたもよく知ってるでしょ。間違っても怖がらせないことが大事なの。あとは重量の問題かしら。あんまり重いと飛べなくなってしまうから、そこは私も気を遣ってる」
「さっすがイングリット、模範回答だな」

 おだてたところで何も出ないことは知りつつ、シルヴァンは口を斜めにした。当の天馬はいたって呑気なもので、縦に長い菱形の耳を横に倒し、時折気持ちよさそうに伸びをしたり、首を振ったりしている。が、きわめて気難しいとされる天馬が地上で今こうしていることそれ自体が、主の注いだ愛情の結実に違いない。シルヴァンは彼女の愛馬を横目に見ながら続ける。

「でも、それで十分と言えるか? フォドラは広いんだ、一口に男と言ってもいろいろいるだろ。なのに、これまでに男の天馬騎士が存在した例はひとつとしてない」
「確かに、それはあなたの言う通りね」

 イングリットの合いの手はいかにも渋々という風ではあったが、つかみは十分であるらしかった。

「そこで俺は閃いたってわけ」弾みをつけて、シルヴァンは意気揚々と答える。
「ずばり当てるぜ、天馬はみんな女の子が好き!」

 数瞬の間があって、イングリットはそれはそれは大きなため息をついた。天馬の耳がそれにぴくりと反応したが、気づいた彼女が首を撫でてやるとほどなく気を静め、再び元のようにくつろぎ始めた。

「……ねえ、シルヴァン」今度は小さく吐息して彼女は言う。
「あなた、私にそんな話をするためにここにいるの? まあ、今回は相手にしてしまった私にも落ち度があると思うけれど、こんなところで油を売っている暇があるのなら、訓練のひとつもしたらどうかしら」
「いや、だから訓練帰りなんだって、俺」
「知ってる。さっきフェリクスからも聞いたわ。『あいつが昼前から訓練所に顔を出した、明日はきっと槍が降るだろう』って。確かに珍しいとは思ったけど、でも昼前からなんでしょう? 私だったら、ちょっと休んでここからもうひと頑張りするところね」

 いつもと違うところを見せたつもりでいたシルヴァンは、手厳しい言葉にぐうの音も出ず天を仰いだ。
 朝は朝で別の用事があり、何も眠りこけていたというわけではないのだが、シルヴァンにも男の意地というものがある。弁明に奔走して言い訳がましくなるよりは、黙って己が未熟を受け入れることを選ぼうと思っていた。イングリットもフェリクスも、学生時代から人一倍鍛錬に熱心な性質である。彼らを見返そうと思ったら、当然、並大抵の練習量では駄目なのだ。

「まあ、天馬が女の子を好きだって言うのは、そうなのかもしれないわね。最初は大変だったけど、慣れてしまえばこんなに懐こいんだもの」話題を戻して、イングリットはくすりと笑った。
「でも、この子は私のことをよく助けてくれているし、誰かさんと違って節操なく女の子を口説いて回ったり、私にその後始末をさせたりするわけじゃないから。別に構わないわ、それくらいのことは」
「なっ……お、俺だってお前のこと助けてるだろ? この前だって……」
「何言ってるの。あなたが今まで私にさせてきたことを思えば、到底釣り合わないんだから。まあ、最近は心を入れ替えたようだけど。これまでの借りを返済するまで、一体どれくらいかかるのかしらね」

 痛いところを突かれて、シルヴァンはうなだれた。

「今に始まったことじゃないが、俺には特別厳しいよなあ、お前。はあ……この取り立ての鬼に山ほど借しを作っちまったのは失敗だったなあ……」
「そうよ。きっちり、耳を揃えて返してもらうつもりでいるんだから」

 いかにも彼女らしい切り返しに、シルヴァンは肩をすくめてみせるしかなかった。それを見たイングリットは別段勝ち誇るでもなく、どことはなしに諦念を滲ませた笑みをこぼした。

「よし、今日はこれでおしまい。ご苦労さま」

 毎度のやりとりの間にもイングリットは手を休めることはなく、いつの間にか作業はすっかり終わっていた。主のねぎらいに天馬はゆっくりと満足げに頭を振ると、その意を汲んで自ら厩舎へと戻ってゆく。

「へえ。降りても人馬一体か」
「それが騎士というものでしょう。あなたは違うのかしら」
「違わない」

 イングリットは問答もそこそこに手際よく後片付けを済ませ、軽く身だしなみを整えると、厩舎の石壁に凭れたままのシルヴァンを振り返った。故郷を懐かしく思わせる白い頬に、沈みゆく夕陽の朱が差している。シルヴァンはその眩しさに思わず目を細めた。

「それじゃ、私、これから夕餉の当番があるから。あなたはどうするの?」

 イングリットのまなざしには微かな期待が見て取れた。それを裏切れるほど、シルヴァンという人間は薄情でも粗忽でもない。

「そうだな、少し休憩したことだし、飯の前にもうひと汗かいてくるか……なーんて、俺らしくもねえけど」
「その意気ね。この程度で音を上げているようじゃ、安心して背中を預けられないもの」

 薄く紅の引かれた口許に弧を描いて、じゃあね、とイングリットは去っていった。落陽に縁取られたその背に向けて、ひらひらと軽く手を振る。やがてそれが見えなくなると、シルヴァンはすっと火の消えたような気持ちになった。
 あたりに人の気配はなく、かさかさと寝藁の擦れる音がいやによく聴こえる気がして、ふと、いつかの彼女の言葉を思い出す。

 ――ずっと、良い友達でいましょう。

 それがイングリットの望みであり、同時に己の望みでもあるのだと、あの時のシルヴァンは思っていた。そう思っていたはずなのに、戦いの日々の中で己の気持ちだけがそこからずれていく。果たしてこれは、付き合いの長い幼なじみに、”良い友達”に対して向けるべき感情だろうか。シルヴァンは再三自問したが、それは問いのまま頭の中をぐるぐると回るばかりで、答えというものに辿りつきそうもなかった。まさかイングリットの天馬にまで妬くようになるとは、あの時にはまさか思いもしなかったことだった。

 我に返ったシルヴァンが顔を上げると、東の空は薄暮の余韻を過ぎて、もうほとんど闇色に染まっていた。おっと、急がねえと。先の宣言を思い出し、慌ててその場を離れようとした時、思いがけずイングリットの天馬と目が合った。白い睫毛に縁取られた扁桃形のつぶらな瞳が、どこかもの言いたげな様子でじっとこちらを見つめている。両耳はぴんと鋭く立っていて、どうやら、意識していたのは何もシルヴァンの側だけというわけでもないらしい。

「よう。……恋敵だな、俺ら」

 半ば宙に泳がせたようなその言葉に、返事のつもりか、天馬は小さく鼻を鳴らした。

(了)

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