・名づけ得ぬ情愛
・合意の曖昧な身体接触
・独自解釈多数
前提として”そういうことをしようとしている”話ですが、エロらしいエロはありません(尾は勝てません)。恥辱、凌辱を期待される方には退屈な展開だと思います。
偶像になるということは、偽りを纏うことに他ならない。そうして重ね着した虚飾を、兄の指が一枚、また一枚と剥いでいく。将校の装いを解かれながら、然し勇作はそれに抗おうとは思わなかった。この用具置き場は部屋というよりも箱と呼んで然るべき間取りで、そんなところに大の男ふたり入っているから、お互い自由に使える空間はごく少ない。だから仕事の邪魔にならぬよう、勇作は箒や熊手の柄を肘で押して脇に退け、軽く胸を開いた姿勢で、壁を背にじっとしていた。換気口を兼ねた高窓から差し込むわずかな光が、兄と勇作と、道具たちを格子模様に照らしている。
聡い兄のことだから、もちろん勇作のお節介に気づかなかったわけはないだろう。それでいて彼は何も言わなかった。淡々と軍服の留め具を外し、続いて襦袢の釦もすべて外した。狙撃兵である兄の所作は降りつむ雪を思わせて静かで、無常で、どこまでも他意がなかった。その狙いの一途が、勇作の血潮を沸かし、そして魂を震わせた。
前がすっかりはだけてしまっても、勇作が冬隣の寒さを忘れたままでいたのはその為だった。まもなく布地の下に滑り込んできた掌は少しひやりとして、そのつめたさの後から人膚の温かみが少し遅れて伝わってくる。兄によるひそやかな侵襲を受け容れながら、勇作は未だ見ぬ旭川の初雪を眼裏に思い浮かべた。郷里で見るのとは違う、人の営みのすべてを掃き清めるような白い雪――。
「そろそろ助けを呼んだらどうです」
皮肉めいた兄の言葉に、我に返った勇作は一寸間を置いて答えた。
「必要を感じません」
それからできるだけ長く息を吐いた。全身から余計な力が抜けるにしたがって、左胸に置かれている手がゆっくりと沈み込む。――もっと、近くに。そう思いながら、勇作は軍帽の庇越しに兄の瞳を探した。それはあまりに純粋な黒を湛えているから、この薄暗がりにあってもきっとよく見えるはずだった。だが兄は相変わらず面を伏せ、庇を楯として、頑なに目を合わせようとしない。ただ、その時のほんの僅かな呼吸の乱れが、彼を愛する弟には言葉通り膚でわかった。
「強がらないことです」冷笑混じりのそれは、自身に言い聞かせているようにも聴こえた。「しんじつ潔白なあなたとて、まさかこの先のことを想像できぬほど無知蒙昧ではありますまい。良い機会ですし、あなたを疵物にしようとする不届き者はさっさと営倉送りにして、兄弟の縁ごと手打ちにしては如何か
「本当にあるのですか」勇作は退かずに訊き返した。「この先が」
その反応が気に入らなかったのか、兄はわざとらしく斜に構えた。庇の下の、翳が濃くなる。
「ご自身の貞操の危機に、随分と悠長な仰りようだ。何ならあなた自身が俺をひっ捕らえて、上に突き出したっていいんですよ。いずれ旗手を拝命する大切なひとり息子への狼藉、あなたの父上はさぞお怒りになるでしょうな」
「兄様だけです!」
兄と自分、どちらにとっても存在の大きすぎる父親を引き合いに出されるせつなさに、勇作の唇から思いがけず本音がこぼれた。そのことに自身少なからず困惑もした。でも、本当に兄だけだったのだ。
「……これほど、私の近くまで来てくださったのは」
士官学校時代、帝国ホテルの廊下ですれ違った一等卒のことを、勇作はずっと覚えていた。歳の頃は勇作と同じくらいの、色白で大きな目をした人で、律儀な会釈と、危ういまでに澄みとおる漆黒の双眸で印象に残った。その瞳が何を言わんとしていたのか理解したのは、入隊に際して己に兄がいることを聞き及んだ時だった。だからすぐに会いに行こうと思った。兄が遠路はるばる自分に会いに来たように、はじめましてを言いに行った。そうして困惑気味の兄がくれた「規律がゆるみますから」という最初の言葉は、勇作には忘れ得ぬものとなった。生涯この人の弟であろうと、決意した。
「男兄弟は一緒に悪さもするものだと、先日仰いましたね」
「ええ」
「われわれのこの先というのは、やはり悪いことなのですか」
「呆れた人だ。それ以外に何があるというんです」
「互いに求め合うことが、どうしていけないのでしょう」
「……ははッ、あの時はご聡明な判断をなさった方の台詞とはとても思えませんな。この期に及んで何もおわかりでないと見える」
言って、兄は軍帽をぞんざいに脱ぎ捨てた。床に落ちたそれは特に転がるようなこともなく、闇の底に沈んで容易くその一部になった。何物にも染まない黒の瞳が、ここに来て初めて勇作を正中に捉える。
「よく、ご覧になるといい。あなたの兄が何者なのか」
直後、勇作は何が起きたかよくわからなかった。すり抜けた手に襟元を掴まれ、視界の揺れを感じた次の瞬間には兄の顔がとても近くにあって、――これ以上はないほど近くにあって、耳奥で鳴り続けている擦り半以外はもう何も聴こえなかったし、あにさま、と声に出そうとした時、息吹の通る途は既になかった。兄の唇が勇作のそれを塞いでいたからである。
間近に眺める兄の双眸は挑戦的にぎらつきながら、出会った時と同じように、兄が決して言葉にはしない切実なものを奥の奥に秘めている。瞼を閉じるのも忘れてその韜晦の深さに魅入っていると、眼前の眉間にみるみる皺が寄った。兄らしからぬ露骨さに、勇作は思わずどきりとする。それからほどなく、もう乾いてはいない唇を割り開いて、野分のように吹き込んでくるものがあった。兄としては脅かしたつもりだったかもしれないが、おかげではじめての勇作にもよくわかった。”この先”には奪うも差し出すもない。ただ境界を失することの陶然があるだけだ――しかし孤高を潔しとする兄は、それこそを悪と呼ぶのかもしれない。
触れている部分という部分が、凍瘡ほども熱くなる。うねる肉厚の舌。膚と膚の間で存在を主張する髭。やはり余念のない指。軍人らしく逞しい胸に、その下の規則正しい鼓動――物資の乏しい戦地での任に備えるのだと言って、頑なに煙草を吸わない生真面目な兄のすべて――勇作はいつしか、与えられるものに舌先で応え始めていた。そうして祈りを捧げるかのように、口の中だけでこう言った。
(見て)
すると兄は途端に身動いだ。揺れる瞳にこの場を離れようとする意志を感じたが、勇作の方はますます離れがたく、咄嗟に兄の軀に手を伸ばした。勇作の視界は兄でいっぱいだったから、震える指が肩章の輪を捕らえたのは偶然でしかない。しかしその偶然もまた、兄をいたく動揺させたらしかった。顕わだったのはわずか一呼吸の間にすぎないが、その動揺の中に勇作は兄の素顔を見て取った。其れはひとひらの雪を思わせて儚く、無防備で、今にも融けてしまいそうだった。
(兄様、見て)
離れかけた唇を、もう一度重ねにゆく。たちまち見開かれる黒の水鏡に、勇作もまたありのままの己を曝した。それが危ういことだとわかっていても、そんな捨て身のやり方でしか伝えられないことが、勇作の肚にはあるのだった。すなわち、その雄弁な瞳が暗に語ってきた通り、兄は兄自身が思っているような人ではないのだと。たとえ共に過ごした時間は短くとも、われわれ兄弟は出会ったあの時からずっと、そしていつまでも同じものなのだと。
「あっ」
瞬間、唇に走った痛みが恍惚の世界を閉じた。はッ、と鋭い吐息の音。突き飛ばされた衝撃で勇作の軍帽もまた床に落ち、勢いよく扉を開け放った兄の輪郭が眩い陽の光を帯びる。去り際、濃さを増した影の中を兄は一度だけ振り返った。三本線の袖で乱暴に口許を拭いながら、睨めつけるでもなく勇作を見、
「ほら。皆の言う通り、とんだ”山猫”だったでしょう」
それだけを言い捨てて、ふいと外の世界へ出ていった。
唇の余燼に指で触れてみると、我が身の切なさがいや増すようだった。血こそ出てはいなかったが、熱りと痛みの混じり合ったそれは勇作に深く刻み込まれ、沫雪のようには消えてくれそうになかった。互いに近づきすぎたというのは、きっとそうなのだろう。傷つけてしまったと思えば、兄の背を追うことすらも憚られた。だがふたりの輪郭が少なからず融け合っていた時、兄と自分の求めるものに、果たして齟齬はあっただろうか。何が――何かが、違っただろうか。
勇作は置き去りにされた軍帽を拾って、埃を払った。それからふたつ添わせるようにして、今しがた寒さを感じ始めたばかりの、はだかの胸に抱きしめた。
(了)