・CP要素薄
・”信頼できない語り手”
・攻めの性嫌悪的な心理描写
・攻めの出自に対する第三者からの揶揄、および内面化された差別意識(特にミソジニー/ミサンドリー傾向)
・心理的操作/ガスライティングの描写
・ファンブックネタあり
差別の描写が多数含まれますが、それを肯定するものでは一切ありません。最終的に「すべてが間違っていたことになる」前提の話です。
姉妹編:『オリフラムと山猫』
信じられん、と後ろから失笑まじりの声がする。
「本当に兄弟なのだろうか。あの勇作殿とは比べ物にもならぬ」
「兄弟と言っても、半分だからな。しかも奴は山猫の――」
「おっと、声が大きいぞ。地獄耳で評判だからな、尾形上等兵殿は」
それはあまりにもありふれた陰口だったから、尾形は眉のひとつも動かさなかった。耳にたこができる、とは正にこのことだった。誰も彼もがわざわざ聞こえるように悪意を込めて話すくせ、内容はどれも紋切りに過ぎてつまらない。換言すれば、価値がない、というものだ。
第一、そんなのは見ればわかることだった。士官学校を首席で卒業、恵まれた体格に鼻梁の通った華やかな面立ちの、それでいて誂え向きに禁欲的な感じのする美丈夫。隣国との関係が日に日に悪化する今、周囲からは聯隊旗手の拝命を期待、いや熱望されてすらいる。それが花沢勇作少尉だ。それだけなら、まだよかった。なんと分不相応にもこの饐え臭い兵営に連日のごとく出入りし、部下にあたる妾腹の兄を気安く兄様などと呼んでは、率先して規律を乱す。それが花沢勇作少尉だ。
そんな異母弟がいてみろ、と尾形は笑いつきもせず思う。
(善良ぶってるお前らだって、奴の化けの皮を剥ぐことばかり考えるに違いない)
雑音を無視して角を曲がると、北面の廊下にはもう禄に光も射し込まず、この時間にはすっかり影になっていた。そこでは誰に構われることもない空気が一塊と化し、まるで死体か何かのように冷たく横たわっている。
(そうとも、)
少年時代、母のために鳥を撃つのをやめたその時から、尾形はよく知っている。祝福されて生まれたのではない自分が行くのはいつだって”陽のあたらない道”であり、それはまた地獄に通ずる道なのだと。
だが陽のあたる方の道はそうではないと、どうして断言できるだろうか?
命は命を喰らう。愛だ何だと綺麗事をのたまうのと同じ口で、簡単に他者を食い物にする。都合の悪いことは全部どこかの誰かに押し付けて、取り巻きはそんなことを高潔だの高貴だのと持て囃す。いと高き精神、そんなものは存在しない。だから天の国など世迷い言だ。人間の行く先はみな等しく地獄に決まっている――尾形からすればそれは敢えて証明するまでもなく、わかりきったことだった。
(みんな俺と同じはずだ)
なるほど尾形百之助は計算高い男に相違なかった。飼い主である鶴見と中央を自ら天秤にかけ、どちらからも不可欠とされるように、そして双方から支払われる報酬が常に最大化するように、これまで巧く立ち回ってきた。花沢中将のひとり息子のたらし込みを買って出たのも、この後の己が立場を有利にするためだった。しかしながら、どれほど優れた射手も、死角というものをなくすことはできない。かの『韓非子』は斯く記す。杜子曰く、智の目の如きを憂うる也、能く百歩の外を見るも、自ら其の睫を見る能わず。
そうして”能く百歩の外を見る”尾形が暗い廊下をひとり歩いていた時、二米ほど先で不意に脇の扉が開き、一際大きな人影がぬっと現れたのである。まさか、この時間にこんなところにいるわけが、という疑いの分だけ思考が遠回りをしたから、その人だと気づいた時にはもう遅かった。
「兄様!」
尾形よりも頭ひとつ以上も背の高いその人物は、いそいそと扉を閉めると、いつもそうするように白い歯を見せてぱっと笑った。たったそれだけのこと、本当にただそれだけのことで、この男は尾形の周りの空気を澄んだものに変えてしまう。かくも陰気で不潔な兵営が、一転して仄明るく、風通しのよい場所になったかのように錯覚させられる――ここは陽のあたらない方の道で、まして花が咲くわけもないのに。
「勇作殿」尾形は居心地の悪さを感じながら言った。「こんなところに何用ですか」
「はい」兄から名で呼ばれることの嬉しさを、この異母弟は隠そうともしない。「不足していた備品の補充に参りました。もっとも、特に急ぐものでもないですし、誰か他の者に任せてもよかったのですが。……兄様にだけは、本当のことを申し上げたいと思います」
頼んでもないのにそう言うと、勇作は掌を口許に添え、少し小声で囁いた。
「こちらへ出向く口実が、欲しくて」
「……」
「あの、内緒にしてくださいますか」
予期せぬ事態に茫然と目の前の顔を見上げていると、精悍な頬に薄っすら朱が差してくるのがわかって、今のは失敗したな、と尾形はすぐさま踵を返した。貴公子然としたその風采も、尾形とは――すなわち父とも――これっぽっちも似ていない。そのことが象徴する”清さ”を尾形が訝っているのも、勇作は知らない。
「ならばどうぞそのようにご命令ください、花沢少尉殿」
勇作の方は一寸慌てたような様子だったが、しかし当たり前のように尾形の斜め後ろをついてきた。歩幅の都合、尾形がそれとはなしに勇作を振り切るのは至難の業、というよりほぼ不可能に近い。その勇作の歩様が教本から抜け出してきたような立派なものであることも、尾形を苛立たせる要因のひとつだった。なにしろ頭から爪の先まで模範軍人と言わんばかりの形でいながら、一向に上官らしく振る舞おうとしないのだから。
もっとも、この男の不用心さは尾形にとって極めて都合がよかった。アイヌの金塊、それを巡る者たちの企み。頭越しの陰謀について何を知る術もない勇作は、自身にどんな利用価値があるかなど思いもよらないことだろう。さて、どうすれば俺はこのボンボンをものにすることができようか――そう考えているうちに、逃げ場のない尾形の右肩は早くも壁を擦り始める。言葉通り押しの強い勇作と並ぶと、どんな廊下も狭く感じた。”丁度いい距離”など、ないに等しかった。兄歴の浅すぎる尾形もそれを知らなかった。
「本日はとても良い日和ですから、どうしても兄様にお会いしたいと思いました。まさかこれほど近くにいらっしゃるとは。僥倖に恵まれました」
「そうですか」
わざと気のない応答を返し、尾形はそれとなく窓の外を見た。蒼穹に映える一面の見事な鱗雲は、しかしそれ自体が悪天の予兆でもある。そんなことは勇作だって百も承知のはずだった。晴れているのは今だけなのだ。そういう”今”を、勇作はよりにもよって誰からも疎まれる兄のために使おうとする。今回だけではない。いつも。いつもいつも。目に滲みるような秋晴れにも嫌気が差して、尾形の視線は雨垂れのように硝子の上を滑り落ちる。
「先程、口さがなく噂している者がいましてね。尾形の奴と勇作殿はまったく似ていない、本当に兄弟なのか、と。残念ながら、至極その通りだと俺も思います」
残念ながら、の部分にわざとらしく溜めを作った尾形を茶化すでもなく、勇作は答えて言った。
「そうでしょうか」
「誰が見ても、そうでしょう」有無を言わせず、尾形は淡々と語を継いだ。「あなたは聡いんだかそうでないんだか、よくわからんところがありますな。この調子ではまたうっかり厠に落ちないとも限らない。まあ、験担ぎには良いかもしれませんが。勝ち運がつきますのでね」
「も、申し訳ありません、その節は兄様にとんだご迷惑を……」
過去の失態を蒸し返すと、勇作は羞恥に赤くなった。それはまこと驚くべき話で、よもや兵営の厠に足をとられる旗手候補がいるなど、尾形とてその目で直に見なければ信じなかったに違いない。
「恥ずかしながら、私はどうも抜けたところがありまして。重々気をつけてはいるつもりなのですが、幼少の砌から一向に直る気配がないのです。それに引き換え、兄様はいつも落ち着いていらっしゃいますね。見習いたいものです」
尾形はわずかに眉を上げた。冗談として聞き流すこともできたが、勇作の声色はあくまで実直で、煽てという風でもなかった。裏と呼べるものがなさすぎて、むしろ拍子抜けしたほどだ。
「そう見えますか」
「はい」
「なるほど、やはり似ておらんということですな。残念です」
「ですが兄様、互いに同じところもありますよ」
「父親は同じですが」
「……それは、そうですね」
勇作がわずかに言い淀んだのを、その時の尾形は気に留めなかった。
「所属聯隊も同じですな。生憎、俺はそれ以上は何も思い浮かびませんが」
「志も同じだと、私は思っております」
「どうでしょうかね」その臆面のなさに押されて、尾形は壁の方に目を遣った。
「ですから、私と兄様の同じところは少なくともみっつあります。今思いつく限りでみっつも、です。探せばもっとたくさん見つかるかもしれません。たとえば好きな食べ物とか、」
自身の不名誉も考えずに”同じ”を探そうとする懸命さ。それがどうにも鬱陶しく、返す言葉に棘を忍ばせずにはいられなくなる。
「他にないか、またお会いする時までに俺の方でも探しておきますよ」しかし皮肉のつもりの科白には、乗るはずのない抑揚が乗った。「俺と同じだったり似ていたりすることが、あなたにとって歓迎すべき事実ならの話ですが」
「ええ、もちろんです」
「それはよかった。約束のしるしに、指切りでもしませんか」
突然の提案に勇作は戸惑った様子だった。が、尾形が小指を構えてみせると、どこか稚気を帯びたはにかみを返した。
「はい!」
やはりどこも似ていない、と尾形は痛感する。無理に笑みの形をつくろうとすれば、唇の端が歪んで引き攣った。約束。それは破られるためにだけ存在している。父は「また来る」と言って、それきり二度と母を訪ねてはこなかった。鶴見も中央も、用済みと見れば飼い猫など容易く処すだろう。言葉では、どうとでも言える。ゆえに尾形にとって、信じられるのは常に自分だけだった。しかしどうやら、陽のあたる道をゆく――祝福されて生まれた子どもの方は、事情が違うらしい。
「嬉しいです。きょうだいで秘密の約束をするの、夢でした」
眩しさの対処は簡単だった。直視しなければ、それで済む。
「俺もですよ」
幸いにして、狙撃兵の尾形は心を殺すのには慣れていた。徳川の御代から数多の遊女が懇意の客とそうしてきたように、小指と小指を番えて、根元から深く絡ませる。慣れぬ他者のぬくもりに、尾形の指先はかえって冷えていく心地がした。が、勇作は子どもの遊びと思うのか、まるで初めて万華鏡か何かを目にする少年よろしく、楽しげに息を弾ませる。実際、こんな児戯で相手をその心の中まで所有できるなどと、真に受ける方がどうかしている。しかし、と”狩る者”は目をゆっくりと瞬く――男なんてのは、みんなそんなもんなのだ。あいつも、あいつの血を引くお前も当然、
(俺と同じだ)